2008年8月10日 (日)

私の「前近代的」(?)感覚

 暑い日が続きますが,皆様にはお変わりないでしょうか?

 さて,今年も「生と死」をより意識する時季になり,11年ぶりに奥秩父に行ってきました。その際,門田隆将『なぜ君は絶望と闘えたのか 本村洋の3300日』(新潮社・2008年)を読んだりしておりました。妻子を殺害された青年が,妻子を守れなかったことで自分を追い詰め,しかし周囲の温情溢れる支えもあって闘い続け,人間的に成長していく姿が,丁寧に描かれていると思います。
 ニュースでは折々に拝見してその度に頭の下がる思いでしたが,ご本人は自殺を考えるほどであったということで(静かに思いやればそれも想像できることとはいえ),やはり言葉に言い表せない苦しみを味わわれたのだということを,しみじみと感じます。

 専門外なので控えめに書いておきますが,私は以前から特に殺人などの重罪の刑罰が軽すぎるのではないかと後輩に余計なことを言ったりしておりまして,1人であっても人の命を奪った者には原則として死刑が科されるべきではないかという疑問をもっております。国家が仇討ちを許していない以上,国家の方できちんと示しをつけていただきたいということです(冤罪のないように,証拠に基づく裁判がなされるべきことは,それとは別の問題です。この点では,裁判員制度において証拠調べが簡略化されることは,極めて恐ろしいことです。ボタンを掛け違えると後々まで禍根を残すということは,特に前世紀末から今世紀に入って現在までの「改革」一般に妥当することであると,後世は評価することでしょう)。

 それから,少年については,その可塑性を考えて少年法51条以下が設けられているのでしょうが,物事には大目に見ることのできるものとできないものとがあり,殺人などは明らかに後者でしょう。ところが,(上記の事件とは無関係なので完全に蛇足ですが)少年法51条は,「罪を犯すとき十八歳に満たない者に対しては」,2項で「無期刑をもつて処断すべきときであつても,有期の懲役又は禁錮を科することができる。」としつつ,1項では「死刑をもつて処断すべきときは,無期刑を科する。」とのみしており,私などは,1項にも「ことができる」を付け加えるべきではないかと考えるものです。

 いずれにしても,前掲書をお読みいただいてお考えいただければ,と思います(エピローグで,死刑判決を受けた後のFへの面会の様子が記述されていて,これも意義深いものと思います)。

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2008年8月 1日 (金)

パール判決書はいかが?

 月が変わって気分一新,久々に更新します。

 実は,思うところがあり,(デザインなど少し変えたものの)更新は控えておりました。それでも,レポート等の関係で検索してふと立ち寄られる人でもいるためでしょうか,(過疎地である国際私法を中心に雑感を書き留めるだけのブログでもあり)たいして多くないアクセス数ながら,ほぼ安定して落ちないのは意外でした。

 前期の授業も好評のうちに(惜しまれつつ??)終わり,今年の新司法試験の第2問の特に設問2は「なんだかなあ~」などといった話をし,今年こそは早々に自分の時間を確保しています。
 司法修習も3分の2が過ぎたあたりでしょうか,大地震があったりで,直接連絡をとったりはしないものの,気にはなるもので。。。

 まあ,今日は,どなたもあまり関心をおもちではないでしょうが,近況を中心に。。。

 極めて軽い話から始めますと・・・
 国内でCD化されていなかった,カラヤン指揮BPOによるシューマン「序曲,スケルツォとフィナーレ」が手に入り,しばらく聴いておりました。シューマン特有の暗い情熱と執拗に繰り返されるリズムに,最初は他の曲に増して人を寄せ付けないような壁を感じて何度か途中までいって跳ね返され,そのうちにそこで描かれているものに共振し始め,なぜか胸が詰まってきて・・・(軽くない,か?)
 でも,シューマンを聴くなら,名曲がいくらでもあり,そちらの方がずっといいです。

 もっと軽い話を・・・
 月曜8時のTBSドラマ「あんどーなつ」,いいですねえ。今年は,大河にも関心をもてず(一昨年までのように観なくなり),「ちりとてちん」も3月に終わってしまってからはドラマは観ておりませんでしたが,たまたまこのドラマの宣伝番組(初回の再放送?)を観て面白そうだったので第2回からずっと観ています(和菓子,好きだし)。
 基本に忠実に当たり前のことを当たり前に繰り返し繰り返ししつつ高い水準のものを安定して作り続ける<職人の地味な凄み>(とでも言うのでしょうか?),あるいは,師弟間でなかなか伝わらない思い,といったものが,1時間ドラマという制約の中でそれなりに(重くなりすぎないように爽やかに)描かれていると思います。これは,おすすめ!(あまり・・・軽くない,か?)

 話を換えて・・・
 小林よしのり『パール真論』(小学館・2008年)を読みますと。。。「パール判決書」をめぐって面白い状況が生じているらしいですね。
 実は,私は,以前,東京裁判研究会編『共同研究パル判決書(上)』(講談社学術文庫・1984年)を読んで挫折したことがあります。もっとも,ご承知のように(?)「国際私法」は,国家間の関係の規律を中心とする「国際法」とは全く異なるものですし,私は「国際法」は苦手ですので,無理ないと思いますが,215頁まで解説を読まされるのでかえって判決書に素直に入っていけないという面もありました。
 しかし,パール判決書は,当時の中立的な位置から書かれた文字どおり第一級の文献ですから,日本人としての自覚のある者は,必ずこれを読むべきですし,(私自身のことを付け足せば)今年を逃すと専門外の高度かつ大部の文献を読む余裕はもうないかもしれないと思われるところから,少しずつ読み始めています(つまり,前掲書の219頁から『同(下)』の745頁まで,ということになります。ちなみに,まだ,第3部を読み終わったところです。時間のとれる日の午前中に,翻訳が分かりにくいところは原文に照らしたりしつつ,です)。
 レベルが高いので,法科大学院を修了して試験後の「まな板のコイ(蛇の生殺し?)」状態の方がこの時期じっくり読むのに最適だと思いますが(「国際法」の素養はなくても大丈夫ではないかと思います)。

 お気づきのことでしょうが,ブログ・タイトルに付した一文を,佐藤一斎先生のものから,このパール判決書の結語に変えました。今年は,東京裁判終結から60年であるだけでなく,いよいよ米国の覇権が終わりそうでもあり,この語がピッタリだと判断しました。但し,小泉・竹中路線で酷く痛んでしまった我が国の方が,米国発の大波の影響を大本よりも強く受けてしまう危険が高いとの観測もありますので,とにかく首を引っ込めてうまく回避したいものですが・・・

 構造改革路線は全く評価しませんが,1点だけよい結果につながったことは,おかげで,もう6~7年前になりますか,戦前・戦中・戦後占領期の歴史に興味をもって勉強して,高等教育までに刷り込まれていた自虐史観が解けたことです。
 その頃,学科で基礎ゼミをもたされて,最終回に以下のような推薦文献リストを配付しました。当時は危ないことをしているような気もしていましたが,別に読むことを強制したわけでもないし,今となってはそう悪くなかったのではないかという気がします。もっとも,誰も読んでくれなかったでしょうけど・・・(以下,書名のみ挙げておきます。ご参考まで。)

○「民主主義」・「人権」に関するもの
 ①長谷川三千子『民主主義とは何なのか』(文春新書・2001年)

○グローバリズムに関するもの
 ②ジョゼフ・E・スティグリッツ(2001年ノーベル経済学賞受賞)
  『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』(徳間書店・2002年)

○東京裁判に関するもの
 ③田中正明『パール判事の日本無罪論』(小学館文庫・2001年)
 ④清瀬一郎『秘録東京裁判』(中公文庫・1986年)
 ⑤児島襄『東京裁判(上)(下)』(中公文庫・1982年)

○台湾に関するもの
 ⑥蔡焜燦『台湾人と日本精神』(小学館文庫・2001年)
 ⑦黄文雄『台湾は日本人がつくった』(徳間書店・2001年)

○その他
 ⑧古森義久=井沢元彦=稲垣武『朝日新聞の大研究』(扶桑社・2002年)

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 そう言えば,忘れていましたが,もう1点書いておきます。

 国際裁判管轄の立法をするのだということで,(法例廃止の際と同様にまたまた)法務省の委託により商事法務研究会に「国際裁判管轄研究会」なるものができ,その報告書がNBLに連載され始めました。5月の国際私法学会では,(事前にメーリングリストで配付されたものの)ほとんど触れられず,でしたので,今度の学会ではこれを検討の中心に据えるのでないと怠慢だということになると私は思いますが,大半の方が逃げてしまうのでしょうねえ。。。

 中身はじっくり検討させてもらうこととして,今回は瑣末な点を1点だけ採り上げます。
 同誌883号(2008年)36頁に,編集部「『国際裁判管轄研究会報告書』のとりまとめについて」というのがあり,その中に以下のような記述があります。

企業等に対するアンケート調査や,各種団体に対するヒアリングも行っている。

(中略)

研究会におけるアンケート結果においても,予測可能性および法的安定性の確保のため,国際裁判管轄に関する規定を設けることが望ましいとの意見が多数であった。

(以上,前掲頁)
 今回は,実務のニーズをきちんと調査しているようで。。。と思って,報告書(1)を見てみると,

経営法友会の協力を得て,同会に所属の企業に国際裁判管轄に関するアンケートを実施した。
 そのアンケートの結果であるが,957社にアンケートを配布したところ,回答を寄せたのは,37社であった。まず,規定の要否については,規定を設けるべき,あるいは設ける方が望ましいとする意見が25社と多く,その理由として,予測可能性,法的安定性の確保を挙げるものが多数である。他方,規定は不要であるとする意見は,1社にとどまった。

(以上,前掲38頁)
 「回答を寄せた……37社」中「25社」と考えれば,67.6%で3分の2をかろうじて超えていると見えますが,(回答率は 3.9%にすぎず)配布数の「957」を母数とすれば 2.6%しかありません。これは,ほとんど無関心ということではないのでしょうか? これで,予算を使って立法するんでしょうか?(「無駄ゼロ」との関係は,どうなるのでしょう?)
 アンケートの項目と具体的な選択肢,選択肢ごとの回答数を公表すべきではないのでしょうか? 各法科大学院が細かい数値を公表させられているのと比べると,あまりにも貧弱ではないでしょうか?

 まあ,暑いので,このへんにしておきます。

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2008年6月23日 (月)

追悼

 国際私法学会にとってたいへん不幸なことですが・・・

 山田鐐一名古屋大学名誉教授が16日(月)に,元永和彦筑波大学教授が13日(金)に逝去されました。

 山田先生の『国際私法』(有斐閣)は,現在の国際私法においては本当に稀少な,注の多い体系書で,深く勉強する手がかりとなる文献のほとんどが引用されているという点でもたいへん貴重なものです(現在は,2004年発行の第3版。新版(2003年発行)から,ご遺言のような「あとがき」が付されています)。

 元永先生の『国際私法』(共著,有斐閣アルマ)は,ご執筆された国際私法総論については,教科書としてはほとんど補充が要らないほど充実した内容のものです。ついに,通則法の制定に関する改訂をご自身ではされないままとなってしまいました。

 私が学部時代に刑法総論などのテーマで議論していた方も,昨年亡くなったとのことで・・・

 心より,ご冥福をお祈り申し上げます。

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2008年6月14日 (土)

日本国籍の希薄化?-国籍法3条1項違憲大法廷判決(その2)

 さて,引き続き,最大判平成20年6月4日についてです。

 理由の第二として,大法廷の多数意見は,「諸外国においては,非嫡出子に対する法的な差別的取扱いを解消する方向にあることがうかがわれ,我が国が批准した市民的及び政治的権利に関する国際規約及び児童の権利に関する条約にも,児童が出生によっていかなる差別も受けないとする趣旨の規定が存する。さらに,国籍法3条1項の規定が設けられた後,自国民である父の非嫡出子について準正を国籍取得の要件としていた多くの国において,今日までに,認知等により自国民との父子関係の成立が認められた場合にはそれだけで自国籍の取得を認める旨の法改正が行われている。」(判決理由4⑵ウの後半)と述べています。
 しかしながら,この点についても,横尾・津野・古田反対意見が,「確かに,諸外国においては,西欧諸国を中心として,非準正子についても国籍取得を認める立法例が多くなったことは事実である。しかし,これらの諸国においては,その歴史的,地理的状況から国際結婚が多いようにうかがえ,かつ,欧州連合(EU)などの地域的な統合が推進,拡大されているなどの事情がある。また,非嫡出子の数も,30%を超える国が多数に上り,少ない国でも10%を超えているようにうかがわれるなど,我が国とは様々な面で社会の状況に大きな違いがある。」(同反対意見2)と指摘しているのに賛成です。
 この関連では,③判決に欧州諸国および米国・韓国の国籍法の引用がありますが,スウェーデンやデンマークにおいては,当該国民を父とする非嫡出子で国外で出生したものは,独身で18歳未満であれば父母が婚姻し準正子となることによって,当該国籍を取得できるいう例外が設けられています。また,オランダにおいては,2003年改正前には認知により子は当然にオランダ国籍を取得するとされていたのが,同改正後は「当該子が未成年者(18歳未満)である間に,認知したオランダ人により3年間養育された場合に,当該子の法定代理人がオランダ国籍を選択する宣言をすることによりオランダ国籍を取得することができることとされ」,幾分の揺り戻しが生じているようです。
 それにしても,そもそも,なぜ欧州諸国と比較せねばならないのかが分かりません。主体性の喪失は,最高裁をも覆い始めたということなのでしょうか?

 第三に,判旨は,「日本国民である父又は母の嫡出子として出生した子はもとより,日本国民である父から胎児認知された非嫡出子及び日本国民である母の非嫡出子も,生来的に日本国籍を取得することとなるところ,同じく日本国民を血統上の親として出生し,法律上の親子関係を生じた子であるにもかかわらず,日本国民である父から出生後に認知された子のうち準正により嫡出子たる身分を取得しないものに限っては,生来的に日本国籍を取得しないのみならず,同法3条1項所定の届出により日本国籍を取得することもできないことになる。このような区別の結果,日本国民である父から出生後に認知されたにとどまる非嫡出子のみが,日本国籍の取得について著しい差別的取扱いを受けているものといわざるを得ない。」(判決理由4⑵エの前半)と述べています。
 しかしながら,この点も,横尾・津野・古田反対意見が,「実質的に見ても,非嫡出子は出生時において母の親権に服すること,胎児認知は任意認知に限られることなど,これらの場合は,強弱の違いはあっても,親と子の関係に関し,既に出生の時点で血統を超えた我が国社会との結び付きを認めることができる要素があるといえる。また,母が日本国民である場合との差は,出生時における子との種々のかかわり合いに関する父と母の違いから生じるもので,これを男女間における差別ととらえることは相当とは思われない。」(同反対意見2の末尾)と指摘しているのに賛成です。

 横尾・津野・古田反対意見における国籍法3条1項の体系的位置づけは,極めて明確です。すなわち,「国籍法3条1項は,婚姻と出生の前後関係が異なる場合における国籍取得の均衡を図るとともに,親と生活関係を共にする未成年の嫡出子は親と同一の国籍に属することが望ましいという観点も考慮して立法されたものであり,その意味で出生時を基準とする血統主義を補完する措置とされるものであって,血統主義の徹底,拡充を図ることを目的とするものではない。そして,準正により父が子について親権者となり,監護,養育の権利,義務を有することになるなど,法律上もその関係が強固になること,届出のみにより国籍を付与する場合,その要件はできるだけ明確かつ一律であることが適当であること,届出による国籍取得は,外国籍からの離脱が条件とされていないこと,非準正子の場合は,我が国との結び付きの有無,程度が様々であるから,これを個別,具体的に判断する帰化制度によることが合理的で国籍法の体系に沿うものであるところ,帰化の条件が大幅に緩和されていることなどからすれば,認知を受けた場合全般ではなく,準正があった場合をもって届出により国籍取得を認めることとすることには十分合理性が認められるのであって,これらの点が多数意見指摘の事情によって変化したとはいえない。」(同反対意見3の前段)

 なお,「日本国民の子(養子を除く。)で日本に住所を有するもの」についての簡易帰化(国籍法8条1号)の存在に対して,判旨は,第四に,「帰化は法務大臣の裁量行為であり,同号所定の条件を満たす者であっても当然に日本国籍を取得するわけではないから,これを届出による日本国籍の取得に代わるものとみることにより,本件区別が前記立法目的との間の合理的関連性を欠くものでないということはできない。」(判決理由4⑵カの前段)と述べています。
 しかしながら,この点も,横尾・津野・古田反対意見に賛成です。すなわち,「類型的に我が国社会との結び付きを認めることが困難な非準正子については,帰化によることが合理的なことは前記のとおりであるし,また,裁量行為であっても,国家機関として行うものである以上,制度の趣旨を踏まえた合理的なものでなければならず,司法による審査の対象ともなり得るものであり,その運用について考慮すべき点があるとしても,多数意見は,国籍法の体系及び簡易帰化の制度を余りにも軽視するものといわざるを得ない。」(同反対意見3の中段)

 ここまで対立すると逆に気持ちがいいくらいですが,ここから分かるのは,次のことです。すなわち,最高裁は,事実上,日本国籍取得の基準として「血統」という法律上の親子関係の重視を徹底し,日本人の子の日本国籍取得権とでも呼ぶべきものを創設したということと,判旨の射程についてここでも何も考えていないらしいということです(後者については,マレーシア航空事件判決とその後の「特段の事情」論とか,代理出産の最高裁決定などを想起してもらえばよいです)。その意味で,乱暴な処理ではないかとまで思ってしまいます。
 これに対して,上記の反対意見は,「我が国社会との結び付き」という観点を中心に据えて,出生による国籍の取得(2条1号),準正による国籍の取得(3条),簡易帰化(8条1号)の3類型での役割分担をするのが国籍法の体系だと理解していると思われます。
 いったい,日本国籍の要諦とは,何なのでしょうか?

 その点に触れる前に,2点ほど。
 第一に,日本国籍を求めた子たちはフィリピン国籍は有していたのであって無国籍ではなかったはずであること,このような事態が生じているのは外国人を日本に迎え入れるについての規律に以前から問題があり不法滞在者が多数存在していることです。この規律を厳格なものにし厳格に運用しつつ,迎え入れた外国人には相応の処遇をするという方向に転換すべきではないのでしょうか? と言っても,そんなことはこれまた以前から指摘され続けており今さらの感が強いですが,そこが甘いところを日本国籍の付与で補うなど本末転倒ではないかと感じます(生粋の日本人が多く虐げられているのが現状でしょうに)。
 第二に,本判決の射程についてですが,最低限,「本邦において出生し」「出生後現在まで我が国に継続して居住し」ている非準正子に限るべきでしょう。この点につき精密に検討すべきことに,十分ご注意ください。

 話を戻して,最後に,日本国籍の要諦とは,という点ですが・・・

 日本国籍が希薄化(変な表現ですが)したのは,「結び付き」の対象であるべき「我が国」の文化や伝統への理解が希薄化しているからではないでしょうか? ここは相当に強引かもしれませんが,最近読んだ,村上正邦=佐藤優『大和ごころ入門-日本の善によって現代の悪を斬る』(扶桑社・2008年)に,日本人が大切にしてきた「思い」が詰まっているように思われます(特に,検察志望の方にお読みいただきたいと思います)。
 そのうち吉野を訪ねて,じっくり考えたいですね。では,さしあたり,これにて失礼いたします。

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2008年6月13日 (金)

日本国籍の希薄化?-国籍法3条1項違憲大法廷判決(その1)

’CHANGE’=「変化」 → 「へんげ」?

 1年半ほど前に,「美しい国へ」という言葉の語感に違和感を覚えて,それは「美国化」すなわち(中国語で)「米国化」のことではないかと訝ったものでした(2006年12月28日「<アメリカの日本改造計画>」冒頭参照)。
 最近は,’CHANGE’という単語について(それが歴史の浅い国である米国で重用されるのはまだ理解できるのですが),歴史と伝統の国である我が国においても,その英単語が何かプラスイメージを伴うマジックワードとして使われ始めたようであることに,強い違和感を覚えています。

 それはともかく,学生時代の最後のあたり,出口の見えない状況に苦悩していた頃のことを思い返すと,最近の重大事件の被疑者についてのテレビ番組のコメンテーターの発言の多くには,何の洞察も感じません。所詮,人は自身の経験に見合った想像力しかもち得ないのでしょうから,致し方ないのでしょうか・・・。それにしても,痛ましいことです。

 その当時に読んで強烈な印象を受けたものとして,栗本慎一郎『大転換の予兆』(東洋経済新報社・1992年)があります。

 「所属する国家経済に忠誠を尽くす必要がなくなった企業群がトランス・ナショナル・エコノミーを形成する。……トヨタはこの豊田市を除いては,全日本に対して忠誠を尽くすという必要を70年代にすでに失ってしまっている。」(同書 184-185頁)

 「トランス・ナショナル・エコノミーが進展するなか,……一般社会の人びとの生活は大きく言って2つ,細かく見ると3つの階層に分かれるのである。
 ……シンボリック・アナリストたち,……問題を発見し,分析し,解決法を具体的に提起できる,そうした階層は特別の高収入を得,特別の私的共同体をつくり出していくことになっていくのは目に見えている。
 (中略)
 これに対して第2のグループは,基本的には日常作業および広い意味の単純労働作業の人たちである。これを2つに分けることができる。対人サービスの労働者群とルーチン作業の労働者群である。
 (中略)
 ……彼らの租税負担能力はますます限定されたものになり,トランス・ナショナル・エコノミーで活動する企業群が国家経済に税収入を入れないという傾向があることもあいまって,公共サービスはきわめて低水準化していくと述べた。残念ながらこの予想は完全に正しく,公立学校がますます低水準化していくことになる。」(以上,同書 217-219頁)

 「今日進行している第三の波および新しい現実によって引き起こされるものは,……シンボリック・アナリストたちによる生産手段・情報・技術の独占である。もちろん所得も独占されている。この状態では,シンボリック・アナリストが全面的にルーチン・ワークの労働者に戦いを挑めば,その勝利は明らかである。……
 しかし,それはモラル的にもすぐれていないのと同時に,実はシンボリック・アナリスト自身の首をも近い将来に絞める行動である。なぜならば,……シンボリック・アナリストたちのリクルーティング(次世代の補充)を保証する制度はどこの国にもまだ生まれていない。……シンボリック・アナリストが生産を行っても,その商品を買うルーチン・ワークの労働者や対人サービスの労働者の購買力はまったくなくなっていくのである。それどころか生活感覚を共有しない2つの人類が地球上に存在することによって,支配的な人類が被支配的な人類における欲求やニーズを十分にくみ取ることもたぶんできなくなってくるであろう。
 (中略)
 そしてまた,今日,日本のように公共教育がまだしもの普遍性を持っている社会においても,シンボリック・アナリストの層に編入されることが完全に公正な競争によってなされているとはとても言えない。アメリカにおいては最もそうである。したがって,この社会的不公正感は必ずや大きな激動の火種になるとすでに指摘してきたとおりなのである。」(以上,同書 230-232頁)

 以上の慧眼に照らしても,凄惨な事件の続発を回避するためには,(刃物の規制などでは根本的な解決にならず)かつての真に美しい国<に>戻すといったような方向に舵を切らないと,どうにもならないのではないでしょうか(いったい,トラックが突っ込んでくるのにはどう対処すればよいのでしょうか)?

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 さて,今回は,国籍法3条1項を違憲とした最大判平成20年6月4日(同種の事件が2件)に対する違和感を書き留めておきます(まず,念のため,評釈の体裁を採らないことをお断りしておきます)。

 これら2件は,「法律上の婚姻関係にない日本国民である父とフィリピン共和国籍を有する母との間に本邦において出生した上告人(ら)が,出生後父から認知されたことを理由として……法務大臣あてに国籍取得届を提出したところ,国籍取得の条件を備えておらず,日本国籍を取得していないものとされたことから,被上告人に対し,日本国籍を有することの確認を求め」たものです。
 ここでは,「本邦において出生した」という点にご留意ください。
 さらに,退去強制令書発付処分取消等請求事件の方の1審判決である①東京地判平成17年4月13日判時1890号27頁によれば,上告人Xは,「出生後現在まで我が国に継続して居住し」ています。また,①判決は,「X,A,Bの間には,完全な同居生活の成立こそ認められないものの,BとAとの間には内縁関係の成立が認められ,三者の間には家族としての共同生活と評価するに値する関係が成立しているものというべきである。」とも述べています。なおかつ,Xの弟か妹は,胎児認知を受けているので,日本国籍を取得しているものと推測されます(なお,①判決は,「法3条1項は,子が『嫡出子』としての身分を取得した場合にのみ国籍取得を認める旨の定めをしている点において一部無効である」,「一部無効とされた後の法3条1項の規定は,父母の婚姻(内縁関係を含む)及びその認知により嫡出子又は非嫡出子たる身分を取得した子について,一定の要件の下に国籍取得を認めた規定と理解すべきこととなる」と判示したうえで直前のように述べ,請求を認容しています。これに対して,控訴審判決である②東京高判平成18年2月28日家月58巻6号47頁は,①判決を取り消して請求を棄却しています)。
 他方,国籍確認請求事件の方の1審判決であると思われる③東京地判平成18年3月29日判時1932号51頁では,9人の原告が全て「日本で出生し,日本で育った」事実のみ前提とされています(なお,③判決は,「国籍法3条1項の規定は,準正要件を定める部分,すなわち条文の文言でいえば,『婚姻及びその』並びに『嫡出』の部分に限って憲法14条1項に違反し,違憲無効である」と判示して,請求を認容しています。これが,④東京高判平成19年2月27日判例集未登載によって取り消されたものと思われます)。

 このような経過の後に上告されたこれら2件につき,大法廷は,「日本国民である父と日本国民でない母との間に出生し,父から出生後に認知された子は,父母の婚姻により嫡出子たる身分を取得したという部分を除いた国籍法3条1項所定の要件が満たされるときは,同項に基づいて日本国籍を取得することが認められるというべきである。」(判決理由5⑵の末尾)と判示し,原判決を破棄して被上告人の控訴を棄却しました。

 いかにも大胆な判断ですが,その理由としては,まず,「本件区別〔国籍法3条1項の規定が,日本国民である父の非嫡出子について,父母の婚姻により嫡出子たる身分を取得した者に限り日本国籍の取得を認めていることによって,同じく日本国民である父から認知された子でありながら父母が法律上の婚姻をしていない非嫡出子は,その余の同項所定の要件を満たしても日本国籍を取得することができないという区別-引用者注〕については,……立法目的との間における合理的関連性は,我が国の内外における社会的環境の変化等によって失われており,今日において,国籍法3条1項の規定は,日本国籍の取得につき合理性を欠いた過剰な要件を課するものとなっているというべきである。」(判決理由4⑶)と説かれています。

 この点を細かく見ると,第一に,判旨は「我が国における社会的,経済的環境等の変化に伴って,夫婦共同生活の在り方を含む家族生活や親子関係に関する意識も一様ではなくなってきており,今日では,出生数に占める非嫡出子の割合が増加するなど,家族生活や親子関係の実態も変化し多様化してきている。」(判決理由4⑵ウの冒頭)と述べています。
 しかしながら,こう述べるためのデータが示されていません。むしろ,横尾和子,津野修,古田佑紀裁判官の反対意見における,「家族生活や親子関係に関するある程度の意識の変化があることは事実としても,それがどのような内容,程度のものか,国民一般の意識として大きな変化があったかは,具体的に明らかとはいえない。
 実態の変化についても,家族の生活状況に顕著な変化があるとは思われないし,また,統計によれば,非嫡出子の出生数は,国籍法3条1項立法の翌年である昭和60年において1万4168人(1.0%),平成15年において2万1634人(1.9%)であり,日本国民を父とし,外国人を母とする子の出生数は,統計の得られる昭和62年において5538人,平成15年において1万2690人であり,増加はしているものの,その程度はわずかである。
 このように,約20年の間における非嫡出子の増加が上記の程度であることは,多数意見の指摘と異なり,少なくとも,子を含む場合の家族関係の在り方については,国民一般の意識に大きな変化がないことの証左と見ることも十分可能である。」(同反対意見2の前半)との指摘が注目されるべきかと思います。

 ちょっと長くなってしまいましたので,いったん切ります。

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2008年6月 2日 (月)

ゲルバー,ABQ解散公演

 3年ぶりに,クラシックのコンサートに出かけることができました。

 まずは,5月29日(木)にゲルバーの来日40周年のリサイタルへ。
 アルゼンチン生まれの凄いピアニストであることは,吉田秀和『世界のピアニスト』(新潮文庫・1983年)152-161頁を読んで以来知ってはいたのですが,先日たまたまリサイタルがあることに気が付いたのでした。
 プログラムは,いずれもベートーヴェンのピアノ・ソナタで,第14番「月光」,第21番「ワルトシュタイン」,第8番「悲愴」,第23番「熱情」でした。東京オペラシティコンサートホールの最前列の左から6番目という座席で,演奏者のやや右後方すぐ近くから,重い小児麻痺を克服されたその演奏姿を凝視しながら聴いておりました。
 なかなか堂々とした演奏で,正確さを多少犠牲にしても(?)ベートーヴェンが曲に込めたものを思い切り表現するといった感じの演奏と聴きました(素人が書いてますので,これでご勘弁を)。非常によい演奏だったようで,CDもよく売れていたと右隣の親子が話をしていました。
 ただ,私にはベートーヴェンでは交響曲しか共感する力がないようで,ピアノ曲なら,感情を自然に表現していると思えるシューベルトやシューマンの方がいいなあと正直思いました。

 次は,昨6月1日(日)にアルバン・ベルク四重奏団解散公演へ。
 プログラムは,ハイドン:「十字架上のキリストの最後の7つの言葉」より序奏,ベルク:叙情組曲,シューベルト:弦楽四重奏曲第15番でした。こちらは,サントリーホールの大ホールの後方真ん中のブロックのほぼ中央の座席で,ちょっと遠いのが残念でした。
 1曲目の終わりに拍手のフライングがあり,早々から気分が害されました。遠かったのでよく見えませんでしたが,第2ヴァイオリンのゲルハルト・シュルツ氏など,顔を歪めてはおられなかったでしょうか?(多くの方の気分を害されるような酷いフライングがあった場合には,隔離したってよいのではないかと思ってしまいます。それくらい酷かったのです。)
 他にも聴衆がいるのですから,演奏者が演奏を終えて力を抜くまで,(演奏者とともに!)余韻まで味わって欲しいものです。

 後方真ん中のブロックの最前列のほぼ中央のあたりに,指揮者の井上道義さんが来ておられたようでした。同業者が聴きに来てくれるようなレベルでありたいと,(我が身を振り返って)思ったのでした。

 それにしても(拍手のフライングだけでなく),4年前にVPOを聴きに行ったときには,「(演奏が)よくなかった」という捨てゼリフを大声で残して帰る人もいて,仮にそうであってもよいところまで吹っ飛んでしまって後味が極めて悪くなるわけであり,少しは周りに対する配慮があってもよいのではないかと思わずにはいられません。
 アンコールの拍手も合わなくなってバラバラだし,聴衆のレベルは-自己中心的な人が増えて-確実に落ちているのでしょうね。これが演奏に何の影響も及ぼさないと考える方が,おかしいのではないでしょうか?

 また当分,コンサートから足が遠のきそうな予感です。

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2008年5月30日 (金)

米国の悲惨への「加速化」?

 昨年4月に,「医療」・「食品」・「教育」といった領域にまで危機が迫っていることを警告する,関岡英之=和田秀樹『「改革」にダマされるな!-私たちの医療、安全、教育はこうなる』(PHP研究所・2007年)をご紹介しました(2007年4月16日(月)「『改革』にダマされるな!」)。
 その後,7月の学部の授業の最終回で「代理出産の最高裁決定」を採り上げたところ卒業生が聴講に来てくれたのですが,昼食の際に,「格差社会」というのは,そうでなければ人が来ない職域向けの人的資源が確保されるための社会であるという側面があるという話をした記憶があります(もっと砕けた話し方だったのですが,こんな文章にしておきます)。

 そうしたところ,「加速化」という日本語らしくない(翻訳語調の!)言葉を,頻繁に目や耳にするようになりました。その「加速化」の先がどうなっているのかについて,ショッキングかつあまりに悲惨な状況が既に活字で紹介され評判になっているようです。今さらの感もなくはありませんが,これは多くの方がお読みになって,現実にこのようになってはならない日本の近未来の姿をしっかりと認識しておくべきであると思います。

 堤未果『ルポ 貧困大国アメリカ』(岩波新書・2008年)という書籍です。目次のみ,示しておきます。
第1章 貧困が生み出す肥満国民
第2章 民営化による国内難民と自由化による経済難民
第3章 一度の病気で貧困層に転落する人々
第4章 出口をふさがれる若者たち
第5章 世界中のワーキングプアが支える「民営化された戦争」

 このような悲惨な状況にならないためには,各人が自分の持ち場で,できることから少しずつでもやる,というしかないと思います。
 その成功例としては,「貸金業法の改正」があります。金利がダメならATMの利用料という形で,というように,まだまだ油断できない状況のようですが,その点も含めて,次の書籍が重要です。

 横田一『クレジット・サラ金列島で闘う人びと』(岩波書店・2008年)。その「あとがき」から引用します。

 「小さな政府」「官から民へ」をキャッチフレーズにした小泉政権の構造改革・規制緩和路線は,実は,アメリカ型弱肉強食社会を目指すものであった。これは大多数の国民にとっては恩恵をもたらすどころか,富める者と貧しい者の格差拡大を招き,六本木ヒルズに象徴される都市の栄華と,財政破綻した夕張市に代表される地方の疲弊も生むことにもなった。
 (中略)
 しかし小泉構造改革を引き継いだ安倍政権は参院選で惨敗し,その後の首相辞任で誕生した福田政権は路線変更を迫られる形となった。
 (中略)
 こうした政治の流れと並べ合わせると,2006年の上限金利引下げを含む歴史的法改正(金利規制強化)は,アメリカ型弱肉強食社会を目指す「構造改革・規制緩和路線」への反転攻勢であったことに気づく。そして医療や教育や労働などの現場でアメリカ型弱肉強食社会への移行が進みつつある現在,今回の金利引下げ運動はそのような他分野での参考になるとも思えるのだ。

 (中略)

クレジット・サラ金列島で闘った人びとの歴史的成果が,そして,今も闘い続けている人びとの積み重ねが,「アメリカ型弱肉強食社会」から「独仏型弱者配慮社会」への転換,さらに言えば弱者が力をつけて強者とも対等に闘えるようになる社会への転換に何らかの形で役立てば,望外の幸せである。

(以上,横田・前掲 160-162頁)

 関係者のご尽力が功を奏した結果,消費者金融のCMも,だいぶ控えめになりました。これに対して,外資系の損保会社のCMは,相変わらず目につきます。
 なぜこのような現在に至ったかの原点に関しては,今こそ,石黒一憲『日本経済再生への法的警鐘-損保危機・行革・金融ビッグバン-』(木鐸社・1998年)が読まれるに相応しいように思います。保険制度の本質や,米国内でも効率一辺倒ではなく州ごとに規制にバラツキがあることなど,重要な指摘が続きます。息が長く,対象密着型の(ある意味,本来はそうあるべき)方法が採られていますので,そのような文章を読み慣れている方でないと,それなりに厳しいかもしれませんが。以下,少しだけ引用しておきます。

 自動車の安全基準の場合を例としよう。「整備不良車や欠陥車を運転する者の自己責任」と言うのならまだ分かる。だが,「それによって事故に巻き込まれる者」はどうなるのか(むしろ後者が「国民の危機管理」の問題の焦点であることに注意せよ)。後者の者は製造物責任訴訟等を起こせばよい,と言うにしても(だが,その消費者が事故で死んでしまったら,一体どうなるのか),一々弁護士を雇って裁判所で争うしか「自分の身」を守れないことになる

 (中略)

 「整備不良車や欠陥車を運転する者の自己責任」を認めて(事前規制としての)「安全」規制を「緩和」することは,その意味において,それまで国家(政府)と企業(メーカー)との緊張関係において処理(”管理”)されていた「”安全”という国民の利益」への侵害(中略)を意味する。つまり,その意味での「危機」は,もはや「企業(メーカー) and/or 整備不良車や欠陥車を運転する者」と「事故の被害者」との関係で「個別管理」されることになる。いわば「危機管理の”民営化”」,ないしは「危機の”分散処理”」の構図である。

(以上,石黒・前掲32頁)
 保険に踏み込む前の問題として,このような当たり前のことが,当時からずいぶんの間,口に出すのも憚られるこわばった空気がありました(あるいは,現在でも?)。「司法制度改革」との連続性も,意識されるべきところでしょう。

 「年令」によるリスク区分をわずか3区分までとし,社会全体として若年層の高リスクを,但し損保制度内在的に処理しようとして来た我が国の自動車保険(任意保険)制度は,それなりに賢明な一つの行き方を示していたと思われる。当該損保制度の全利用者の間での,この穏やかなクロス・サブは,いわば制度利用者全体としての”自己責任”を,”相互扶助の精神”の下に具体化するものであったと言えよう。”利用者負担原則の枠内”でのかかる処理を捨て,直ちに”外部補助”に頼り,国家が(即ち全社会構成員が)直接補助金を高リスク者(車)に交付する,等のことは,徒に一般財政を圧迫するものであり,(中略)まずもって当該制度内在的な処理を行なうべきところと,私は考える

(石黒・前掲 128-129頁)
 直前の部分は,その前後が本書の1つの核に当たるところです。
 「相互扶助の精神」は,マスコミ情報ではどんどんなくなっていっているようですが,例えば千葉ローには色濃く見られるところが救いです。

 最後に,外国の制度を無批判に導入することへの基本的かつ素朴な疑問が鋭く描かれている部分を,引用しておきます。

 規制する側もされる側も,本当の意味で相手を凝視してはいない。日本とて同じことではあろうが,そうであっても何となく社会はまとまる。今はそれが悪いという風潮が日本を支配しているが,果してそうなのであろうか。案外このあたりに,”無限要素の構造物としての社会”を全体として把握する際の,日米の社会構造の差が暗示されているのかも知れない。赤ん坊を俯せに寝かせるアメリカの習わしが戦後の日本で流行し,少なからぬ赤ちゃんが窒息死した。これは,故田中英夫教授の英米法第Ⅱ部の講義で,比較法学の真髄を示すものとして,私を含めた学生達に語られた悲しい逸話である。アメリカは固いベッド,日本は柔らかい蒲団。だから窒息死するのである。そこにおける蒲団とベッドが,(法)制度の受け皿となるそれぞれの現実の社会である。本論文を書き進めつつ,この比喩は”規制緩和論”にもあてはまるな,との思いが,次第に強くなってゆくのである。

(石黒・前掲 151頁)

 ここまで来て,改めて心に留めておくべき西郷さんの至言を引用しておきたくなりましたので,それをもって今回は終わりにします。

廣く各國の制度を採り開明に進まんとならば、先づ我國の本體を居(す)ゑ風教を張り、然して後徐(しづ)かに彼の長所を斟酌するものぞ。否らずして猥りに彼れに倣ひなば、國體は衰頽し、風教は萎靡(ゐび)して匡救す可からず、終に彼の制を受くるに至らんとす。

(山田済斎編『西郷南洲遺訓』(岩波新書・1939年)7-8頁)

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2008年5月20日 (火)

本国法の絞込みの体系的位置

 今月末には,また「教育方法研究会」があります。
 学部の授業であれば,判例や通説を説明し,それがおかしいと思われる場合には,基本に遡って自説をかなり自由に展開することができます。これに対して,ローの授業ですと,判例や通説の筋に沿ってかなり細かく検討していきますので,問題点だらけになってストレスがたまります(例えば,前々回に書いた「夫婦共同養子縁組」の処理など,ちょっと解釈を工夫すればスッキリした議論になるのに(!),という腹立たしい気持ちを抑えて授業しています。民法などと比較すれば,大した解釈論でもないのですけどね)。こんなこと,いつまでやるのでしょう・・・

 ところで,去る11日(日),中京大学で国際私法学会がありました。開催校の準備も周到で,なかなかよい学会であったと思います。
 「国際裁判管轄立法に向けて(その1)」と題するシンポでは,多田望熊本大学教授のご報告が,特に充実したものでした(一般に知られている方が優れた研究者ということでは必ずしもないわけで,このような実力のある方にもっと活躍の場が与えられて然るべきだと思います)。
 シンポの中盤までは,判例法である「特段の事情」論に対する反情が見え隠れしていましたが,終盤には,結局「当事者間の公平,裁判の適正・迅速」という理念に照らして個別の事案ごとに妥当な結論を導いていかざるを得ないのではないかという雰囲気になったように思います。
 ただ,最終盤に,「特段の事情」に関する明文の規定を置くべきではないとか,「特段の事情」の判断を行う場面を例外条項(通則法20条)的に制限すべきであるという意見が出ていましたし,予断を許さない状況だと認識すべきなのかもしれません。

 私は,ここでも,立法には消極的です。細かい規定を設けたところで,結局は各条文の文言の解釈が必要になり,それをめぐって新たな争いが生じるだけではないでしょうか? 国際裁判管轄の判断は日本の裁判所で裁判をするかしないかという二者択一にすぎないわけで,民訴の規定を使って逆推知的に外縁を広めに設定し,「特段の事情」で適切に絞るという現在の実務に,特に問題を感じません。
 むしろ従来の裁判例における「特段の事情」判断の内容を整理する作業の方が重要だと思います(既に,廣江論文が出ていますが)。

 そもそもを言えば,ここのところ立法論に振り回されて,解釈論がどんどん痩せていくのが気になります。国際私法学会でも,昔は若手の個別報告が結構あり,内容には視野の狭さ故の問題がありましたが,若手を育てていこうという雰囲気を感じたものでした。
 このまま解釈論が痩せていけば,そのうち,学者は多すぎる,なんてことになりかねないでしょうね。実際,通則法制定過程においては,それに関わっていない学者は「駒」のような扱いでしたので(今でも同じでしょうか?)。

 さて,今回は,不統一法国の国籍をもつ者の「本国法」の決定について面白いことに気が付きましたので,それを書いておきます。

 道垣内正人教授の業績の1つと考えられるものとして,準拠法の決定・適用について「4つのプロセス」に整理できるとされたことがあると思います(国際私法入門の第6版ですと,17頁以下)。これに,アルマも追随しています(28頁以下。但し,「おおむね」(30頁)とやや慎重ではありますが)。これは,受験生にも(分かりやすさのために)好評なのであろうと思われます。

 ところで,この「4つのプロセス論」においては,前々回に触れた不統一法国の国籍をもつ者の「本国法」の決定は,第3プロセス(準拠法の特定)に位置づけられています(入門38頁以下。特に,道垣内正人『ポイント国際私法総論(第2版)』(有斐閣・2007年)37頁の図2が視覚的に分かりやすい)。これは,「相続」などでは極めて図式的に上手くいきます。
 ところが,O法科大学院の学生から出たという鋭い疑問を耳にしたのですが,・・・
 その疑問とは,当事者の同一本国法を適用すべき場合(婚姻の一般的効力の通則法25条,親子間の法律関係の同32条)においては,第2プロセス(連結点の確定)で「本国法」が出てくるので通説によれば第3プロセスに進んでその絞り込みをしますが,その後で第2プロセスに戻って「同一であるとき」に当たるかの判断をしていることになるのではないか,というものです(千葉の学生からも以前出たかもしれませんが,鮮明に問題意識に上ったのは今度が初めてであるように思います)。

 これは,まさに当たっていると思います。そして,「同一であるとき」の判断を先行させようとすると,興味深い(そして,私には通説よりもはるかに国際私法の基本に忠実だと思われる)結論が得られることに気が付きました。
 「4つのプロセス論」に従って,なおかつ第2プロセスは当然(!)第3プロセスの前に完結すると考えると,25条や32条の「本国法」は,(その人が国籍を有する国という「本国」の通常の語義に従って)日本法や米国法といった<国レベル>のものでしかあり得ません。そして,これが「同一であるとき」に当たると,「本国法」によることが決まります。この第2プロセスで出てきた「本国法」が不統一法国法である場合に,初めて第3プロセスが必要になり,「本国法」が具体的にその国の中のどの法かを決めることになります。

 このような処理の仕方は,通説と比べて,かなり常識的なものになります。

 具体的には,例えば,横浜地判平成3年10月31日家月44巻12号 105頁(渉外判例百選(第3版)6事件)では,1960年にアリゾナ州で帰化した米国籍を有する夫と73年に婚姻し80年にメリーランド州で帰化した米国籍を有する妻(いずれも元日本人)の離婚が問題となり,裁判所は,夫の本国法をアリゾナ州法,妻の本国法をメリーランド州法と判断し,同一本国法なしとして,同一常居所地法たる日本法を適用しました。この結論は,裁判所にとっては,日本法を適用すれば足りることになって好ましいのでしょう。
 しかしながら,夫婦が同じ国の国籍を有しているにもかかわらず,その国の(いずれかの)法を準拠法としないのは,常識に反しないでしょうか? これを上記のように考えると,第2プロセスから「米国法」が同一本国法として出てきて,しかし米国は地域的不統一法国なので第3プロセスが必要になり,おそらくはメリーランド州法を適用すべきことになったのではないかと思われます。

 あるいは,東京地判平成2年12月7日判時1424号84頁(国際私法判例百選 [新法対応補正版] 8事件)では,日本人妻と単身帰国してしまったインドネシア人夫(イスラム教徒)との間に3人の娘(インドネシア国籍・特定の宗教なし)がいて,(夫婦の離婚と)娘たちの親権者の指定が問題になり,夫の宗教と子の宗教は同じでなく同一本国法なしとして,子の常居所地法たる日本法を適用しました。この結論も,裁判所にとっては,日本法を適用すれば足りることになって好ましいのでしょう(さらに,母が日本人であることから,父母両系血統主義に改正された現在の(国籍法の)目から見ると,日本に残った母と子にとっての最密接関係地法たる日本法によることになって,その意味で妥当な印象もなくはありませんが,それは別の話でしょう)。
 しかしながら,父子が同じ国の国籍を有しているにもかかわらず,その国の(いずれかの)法を準拠法としないのは,常識に反しないでしょうか? これを上記のように考えると,第2プロセスから「インドネシア法」が同一本国法として出てきて,しかしインドネシアは人的不統一法国なので第3プロセスが必要になり,インドネシアの関係規定を自然に適用できることになります。

 地域的不統一法国との関係で言えば,まさか日本が米国の州と同じレベルであるはずがないではないか(!)と思いますが。。。あるいは,属国日本は,大統領の選挙権があるわけでもなく,現実には<州レベル以下>なのかもしれませんが・・・

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2008年5月10日 (土)

よく読み,最後まで諦めない

 昨9日(金)の第66期将棋名人戦第3局において,羽生善治挑戦者が「50年に一度」の大逆転勝利を収めた模様(http://www.asahi.com/shougi/news/TKY200805090266.html)。古くは88年NHK杯戦での「5二銀」,その後96年の七冠達成などなど,ただただ驚嘆するのみです。

 天才とは程遠い私のような凡才にとっても,少なくとも次の2点は教訓になります。

1.よく読む!
2.最後まで諦めない!

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2008年5月 5日 (月)

夫婦共同養子縁組と公序

 今日は「こどもの日」ということで,親子関係から「夫婦共同養子縁組と公序」について書いておきます。

 宇都宮家審平成19年7月20日家月59巻12号 106頁は,裁判要旨として以下のようにまとめられている事例です。
 「イラン人夫と日本人妻がイラン人未成年者との養子縁組の許可を求めた事案において,養子縁組を認めていないイラン人夫の本国法を適用することは我が国の公の秩序に適合しないというべきであるから,法の適用に関する通則法42条により,その適用を否定するのが相当である。」

 いずれ遠からず,このへんに関心の強い方が正確な評釈をお書きになるでしょうが,私にもいくつか疑問を感じる点がありますので,自分の視点で少し書かせていただきます。

(1)先に,細かい点から。
 養子縁組は,「養親となるべき者の本国法による」のに加えて,-養子となるべき者の保護のために-「養子となるべき者の本国法」上の一定の「要件をも備えなければならない。」(通則法31条1項)のですが・・・
 この「養子となるべき者の本国法」を決める際に,宇都宮家裁は,「イランは宗教により身分法を異にする人的不統一法国であり,その所属する宗教いかんによって当該イラン人の本国法を決定しなければならないと解されるところ,……未成年者の所属する宗教はいまだ決まっていないことが認められるから,……未成年者の本国法は,イランの規則に従い指定される法がないため,未成年者に最も密接な関係がある日本法であると解される(通則法40条1項前段,後段参照)。」と判示しています。

 しかしながら,最も問題のある点のみ示しますと,・・・
 同条1項かっこ書きは人的不統一法国の国籍を有する者につきその人的不統一法国のいかなる法を「本国法」とするかを決めるための規定であって,その枠を取り払って無限定に最密接関係法を決めるものではありませんから,ここから「日本法」が導かれることはあり得ないはずです。
 ここから先は「養子の本国法上養子制度がない場合の扱い」の問題になる可能性もありますが,この問題については争いがあります。その点の検討が厄介だと考えたのか,いずれにしても,この部分の判示からは(次の問題とともに)「日本法」のみで処理したいという裁判所の強い意向を感じます。本件においては日本が最密接関係地だと解されますので,心情的には理解できないでもありません。

(2)次に,本題です。
 宇都宮家裁は,次のように判示して,公序則を発動しています。
 通則法31条1項により,「申立人B(イラン人夫-引用者注)と未成年者との関係においては,専らイラン法が適用されることになる。」
 「申立人Bはイスラム教徒であ……るから,申立人Bの本国法はイスラム法であ」る。
 「イスラム法においては,養子縁組は認められていないので,申立人Bと未成年者との関係においては,イスラム法の適用により,本件養子縁組は認められないことになるところ,このような結果は,日本法を適用した結果とは異なることが明らかである上,申立人夫婦が,前記認定のとおり,双方とも○○で,今後も未成年者と共に日本で生活し,将来は(略)する予定であること,及び申立人夫婦が,どちらかが単独で未成年者の養親となれればよいと考えているのではなく,あくまでも共に未成年者の養父母となることを望んでいることを考慮すると,申立人Bと未成年者との関係において,イスラム法の適用により,本件養子縁組を認めないものとするのは不当であるといわざるを得ない。
 したがって,本件養子縁組の可否に関しては,申立人Bと未成年者との関係においてイスラム法を適用することは,我が国の公の秩序に適合しないものというべきであるから,通則法42条により,その適用を否定するのが相当である。」

 「不当」という表現が<不適切>でドキッとしますが,夫婦共同養子縁組を許可した結論には賛成です。
 「申立人夫婦が,どちらかが単独で未成年者の養親となれればよいと考えているのではなく,あくまでも共に未成年者の養父母となることを望んでいることを考慮」という部分は,同様の事案において,日本人妻とパキスタン人未成年者の単独縁組を許可した東京家審平成15年3月25日判例集未登載日本民法795条との関係で問題があると思いますが)に対する評釈(大村芳昭・ジュリスト1267号(2004年)211頁)が強く影響していると思います(実際,前掲家月110-111頁に編注として掲げられた8点の参考文献のうち特に3点が大村教授のものです)。
 許可するのが単独縁組というのはいかにも不自然で,その意味では一歩前進ですし,喜ばしく思います(受験生は,ここまで理解できていれば十分です)。

 ただ,イスラム法の適用を公序違反とするのは,(それがイスラム法の内容を糾弾するものではないことは国際私法の専門家にとっては基本的な知識に属することですが)できれば避けたいところではないでしょうか(かつて,韓国法の適用を公序違反とした最判昭和52年3月31日民集31巻2号365頁をめぐって,問題が生じたことがあったのですよね。私は,リアルタイムには知らないのですが。石黒一憲『国際私法(第2版)』(新世社・2007年)78-80頁参照)?
 また,同じく養子縁組については,養子を1名と限定する中国法の適用を公序違反とした神戸家審平成7年5月10日家月47巻12号58頁(国際私法判例百選 [新法対応補正版] 10事件)もありますが,これについても同様の感想をもちます。

 なぜ公序則を発動しなければならなくなるかというと,それを発動するだけの日本との関係が深い事案なのに,異国籍の夫婦を分断して,それぞれの養子縁組につき各養親の本国法を適用しようとするからです。確かに,通則法31条1項の文理解釈としては,そうなるでしょう。
 しかしながら,養親の本国法=最密接関係(地)法を準拠法とする趣旨から考えれば,夫婦がそろって養子を迎えようとしているのですから,養親夫婦の最密接関係(地)法=夫婦の一般的効力の準拠法と解釈すべきではないでしょうか(ほかにも,通説の処理には問題があります。詳しくは拙稿「夫婦関係にある者による養子縁組の準拠法と夫婦の一体性の利益」千葉大学法学論集19巻3号(2004年)49頁,簡単には前掲百選64事件拙稿解説を参照)!?
 虚心に関係の裁判例を眺めてみれば,日本が最密接関係地となっている事例が多数あるところ(前掲拙稿論文81-83頁注29参照),一方の養親が外国人であるばかりに当該外国法をも適用したり公序違反としたりしているのは,私からすると,無益な仕事をしているように見えるのですが・・・

 まあ,「心」ある人が多く法曹になってくれることを,祈るのみです。

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